circumstance evidence

状況証拠 – ヤザキユウイチ

1993年 炭坑のカナリア

Posted on | 2012-10-20 | no comments

作品自体だけにとどまらずに活動自体も興味を持っておっかけていた人に、筒井康隆とプリンスがいます。国籍も年齢もジャンルもまったく属性の違う二人の活動がにわかにシンクロした瞬間があって、創作活動から引退すると同じ年に表明したのでした。1993年のことでした。また二人とも結果的に復帰するんですが「引退期間」がどちらもほぼ4年だったりします。

1993年といえばインターネットや携帯も普及していず、PHSという携帯電話が今度出るらしいよ、という話をしてたくらいで。「引退期間」中にインターネットが普及しはじめ、引退中の活動に利用されたりしてたのでその辺りもからめつつちょっと書いてみようと思います。

筒井康隆の場合

個人的にどうして興味をもったか

彼のスラップスティック小説の主人公がボソリと言う「世の中にこんな面白いことがあったのか」というのを知ったはじめての媒体で。知的世界への関心の入り口だったし、父性や攻撃性、ブラックユーモアについても教わった気がします。作品の幅がとにかく広くて発想も豊か。ハシカみたいなものかもしれないけどかかるのが遅くて二十歳前後くらいから読み始め、それからほぼ出ているものは全冊読み、全集と研究本も一通り揃えていて、世の中を眺めるときの眼鏡の一つになってしまっているかも。ご存命中になんとか会いたいと思い、一度だけ新宿ヒルトンの出版記念パーティでお会いできたことがあります。

「引退」のきっかけ

リアルタイムでは立ち会っていないのですが、本が映画や舞台になったり、第1期の全集が出たり、文学賞を取ったりなど一通りの功なり名とげたあとのこと。これまでも書いた小説が色んな団体から訴えられたりしたことはあったものの、数十年前に書いた短篇小説「無人警察」が教科書に採用され、それがてんかんへの差別を助長する表現がある、と日本てんかん協会から訴えたことを契機に、連載雑誌上で突然の断筆宣言。当時本屋で立ち読みでそのことを知り、またわざっと怒ってみせているのかとそのときは深刻にはみていなかったです。この時に筒井康隆が自らを「炭鉱のカナリア」(©カート・ヴォネガット)になぞらえてました。危機をいち早くとらえて鳴いて警告するというニュアンスだと思います。オウムのサティアンに警察が突入するときに手に持っていたあれですね。後年梅田望夫さんが炭坑のカナリアという言葉を使ってあーあと思ったのですがそれは余談。中野サンプラザで行われた断筆祭りに行きましたよ!

断筆前は筒井さんを一方的に悪者扱い、断筆後にはてんかん協会が一方的に悪者になってしまうというジャーナリズムのあり方に疑問を持ち、議論を整理していくうちに、問題意識はむしろメディアの自主規制と言葉狩りに向けられていくことになります。

「引退中」の活動

断筆期間中の表現活動としては、
・俳優活動(もともと舞台俳優志望だったので)
・「文藝サーバ」(実際にはサイト、ぐらいの意味)を立ち上げ、インターネットで小品を課金して公開
・未発表新作の朗読会
・カタログ生活へインタビューを寄稿
といったオルタナティブな活動が続きました。

インターネットの持っているメタ構造や再帰的構造と、氏の一部の実験小説はすごく相性がいいと思っているけども、その構造をいかした文筆活動までいかなかったのが個人的には残念。世代的に早すぎましたね。
断筆する前の、パソコン通信をテーマにした「朝のガスパール」は新聞小説として毎日掲載されることを生かして読者の反応を次の日の小説の中に反映させたり、ネガティブな読者を(小説内の)飛行機事故でまとめて殺したりしてみせた、まことにインタラクティブな内容でした。

収束の仕方

往復書簡でのやりとりを経て、筒井氏、日本てんかん協会、出版社の三者で権利1つと義務1つをそれぞれ獲得できる落としところを筒井氏が想定して、ほぼそれが結論となったようです。筒井氏曰く、ですが。会社間でいうところの基本契約書といえるもので、それまではそういったものもなく、口約束と人間関係ベースだったのですね。
1997年、新潮社、角川書店、文藝春秋各社と出版社側で自主規制を行なわないことを確認する覚書を交わしたのち執筆再開していますね。

プリンスの場合

個人的にどうして興味をもったか

プリンスは結構形から入ったというか、元々DATEを出したころの岡村靖幸を知って夢中で聞いていたところ、彼が影響受けた中にプリンスがいたというのが入り口で、そこから玄人受けする所とか、ミーハー系音楽雑誌で嫌いなミュージシャン1位になってて面白そうと思ったりとか、少なくとも当時はアルバムごとに打ち出すテーマがガラッと変わるので飽きずにびっくりしつづけられたとか、が聞き始めた頃の理由。ぼくの個性としてはUKの草食な音楽と出会えてたらまた違ったんでしょうが、80年代の黒人音楽の、自分のマイノリティさを、自己暗示と努力と思い込みでアートの文脈でひっくり返してしまってそれを原動力にするような屈折したものと出会ってしまった。彼はミネアポリス出身で地元ラブな人で、ぼくが毎年行ってるメディアアートの祭典EYEO Festivalが開かれているのもミネアポリスですがこれはまた別の話。

発表/未発表に関わらず膨大な音源やライブ活動の音世界があって、現在進行形なので整理されていず、情報が足りないなりに推測や分類をしていくInformation Architectureの楽しさを初めて知った経験でした(マジです)。スウェーデンに大きなファンベースの活動母体があって、そこが関連ミュージシャンやレコーディングエンジニアにインタビューしてミッシングピースを埋めていくのにリアルタイムで立ち会えたのがスリリングでした。

「引退」のきっかけ

最大のヒットである自分の主演映画とそのサントラ以降も、毎年コンスタントにアルバムを出しツアーをし、映画を二本作ったり各種受賞をしたりした後で、90年代に近くなりヒップホップが台頭してきてどう対峙するかという苦闘があって1990年ごろからバンドにラッパーを追加し、ヒップホップ的なものに正面から向き合ってからアルバム2枚目くらいのころに、当時の音楽業界最大の契約(アルバム1枚ごとに1千万ドルと売上20%のロイヤリティ)を果たしますが、その翌1993年。突然引退宣言をしてニュースになりました。内容は、今後新曲は発表せず、ワーナーブラザーズ(WB)との契約はレコーディングされたストックの500曲から満たし、オルタナティブメディアへ活動領域をうつす、と。その少し後の誕生日には、発音できない記号に改名宣言して、WBと契約しているのはプリンスで、自分はプリンスではないので契約を履行する必要はない、などと斬新な宣言をしたりしてました。
契約に満足していない点としては、
・楽曲の著作権は持っているが原盤権(マスターテープの行使)を持っていないこと
・アルバム発売のペースや、収録曲数などのクリエイティブコントロールが十分でないこと
・売り上げの9割がレコード会社であることの理不尽さ
などをインタビューで主張していたと思います。

ぼくも詳しくはないですが、音楽業界もいわば垂直統合で、レコード会社がアーティスト人材の発掘、トレーニング、プロモーション、アルバム制作費などを、リスクを肩代わりにして売り出す代わりに、売り上げの9割を持っていく。新人にはインセンティブがあるけどもキャリアを積むと9割持っていかれるのがフェアに受取れられなくなるのかもしれないですね。

「引退中」の活動

改名宣言でいわれていた「オルタナティブメディア」活動としてはこんな感じ。

・改名した名義で別レコード会社からシングルを発表
・覆面バンドを作ってそれでアルバム発表とツアー
・ミュージカルの上映
・マルチメディアコンテンツの発売
・インターネットベースの会員サービス
・ナイトクラブの経営/ショップの経営
・雑誌の発刊

改名した名義で早々に独立系レーベル会社から発表したシングル(The Most Beautiful Girl In The World)がアメリカとヨーロッパでしばらくぶりの大ヒットしてしまい、この方向性に確信が深まったのだと思う。

その後この名義でアルバムまで作るんですが結局契約上リリースすることはできず、WBから発売されたんですが、Prince名義でCome(逝くとイクをかけた…)を出して生年を区切って死亡宣言をしてみせて、そのあと発音できない名前で再生をほのめかしたThe Gold Experienceをリリース。WBから改名後名義の作品が出てしまうことで聴き手も多いに混乱したのでした。

インターネットベースの会員サービスを開始し、年間サブスクリプションで、未発表曲(オーディオ、ビデオ両方)やコンサートの優待などがありました。アルバム自体もこの会員サービスでしか当初買えないものなどがあったりして。ただ運営自体はかなりお粗末で振込したのにアルバムが届かない、2つ届いた、といったトラブルはざらにありました。

残りの活動はそれほどインパクトはなく散発的で単発的で終わってしまいました。経営しているナイトクラブがアメリカに3箇所、日本に1箇所(横浜)!にあってなんだかバブルな時代でしたね。

収束の仕方

結局WBとの契約枚数はすべて消化せざるをえず、サウンドトラックや未発表アルバム(BlackAlbum)や、勢いで超短期間に作ったロックアルバムまで積み上げて発表してなんとか消化。平行して別名義でアルバムを出していたので発売時期がぶつからないようにという配慮ありつつ、4 年後の1997年には契約枚数を終了。その半年後に3枚組のEmancipationを出します。このジャケのわかりやすさ!

Princeという名前自体は2000年くらいまで権利関係がクリアにならず、2000年になってから戻したような。超有名なヒット曲の1999年にはPrinceを名乗れなかったという。結局全体で7〜8年くらいかかっていることになりますね。

最近ではレコード会社1社から自分の楽曲管理/出版会社に出資してもらったりしつつ、アルバムの発売自体は色んなレコードレーベルから出してますね。その際、全メジャーレーベルと契約しようとしたことがあり、これはレコード会社を土管というか、役割をプロモーションとディストリビューションに限定しようとする試み。
また新聞紙にアルバムを添付したりコンサート代にアルバムを添付して、アルバム自体は無料で配布することで、世の中に広まっている枚数と売上枚数に差分を生じさせ、結果ヒットチャートを無効化しようとする試みもありました。

インディペンデントであるために、インターネットの活用が有用だった面もあるのでしょうが、彼の場合はインターネットあるなしに関わらずシステム的に気に入らないものには立ち向かう性質のようで。

3枚組のアルバムをだしたり、CDに曲分割の信号を入れなかったり(全体を1曲として聞かなければいけない)商業的にリスクがあるとレコード会社に指摘されるものでもコントロールしたいという気持ちが強かったようです。時系列は前後しますが、大ヒットした自分の出演した映画のサントラにマスターベーションの歌が含まれていて、そのせいでParental Advisoryという検閲システムがアメリカで産まれたりしました。

インターネット関連の話だと、インターネット会員サイトはほとんど機能せず、彼の友達のハリウッド情報ばかり載せているサイトの方が情報が多く載っていたりします。
YouTubeやFacebook的なフリーミアムやソーシャルにも背を向けていて、YouTubeで彼の歌を子供が歌ったホームビデオが載ってた時にその普通の人を訴えたり、ほとんどボランティアや持ち出しで活動していたインターネット上の彼のファンベースもたくさんあったのですが訴訟をちらつかせてほとんどすべてつぶしてしまいました。インターネットを商業的に利用する以前の、一意に参照できるオンライン上の公式なリソースがほとんどなく、それはかなりもったいないのでは、と思いますね。

かんたんなまとめ

それぞれの業界の制度が時代とあってこなくなってきた所を、最先端にいた「炭坑のカナリア」として鳴いてみせた、ように思うのですがたまたまインターネットの普及期と重なったし施策として利用したりということもあったので目がくらまされるものの、実はインターネットの力自体が制度疲弊を打ち破ったというよりもそれぞれの実力で個別に状況を打破していったということが実態のようです。当事者の世代感覚やタイミングが少し早かったというのもあると思いますが。
うまくいえないけどネット自体が現実のオルタナティブなんじゃなくて、ネットがあることを前提にした現実自体が過去の現実のオルタナティブである気がしています。よくわかりませんが。

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